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Debian 小史
第 4 章 - 詳細な歴史


4.1 0.x リリース

Debian was begun in August 1993 by Ian Murdock, then an undergraduate at Purdue University. Debian was sponsored by the GNU Project of The Free Software Foundation, the organization started by Richard Stallman and associated with the General Public License (GPL), for one year -- from November 1994 to November 1995.

Debian 0.01 から Debian 0.90 までは 1993 年 8 月から 12 月までの間にリリースされました。Ian Murdock さんは次のように書いています:

「Debian 0.91 は 1994 年 1 月にリリースされました。原始的なパッケージシステムを備えており、ユーザはパッケージを操ることができましたが、それ以外のことはほとんど何もできませんでした (依存関係や、それに類する事はまったく存在していませんでした)。その頃には、Debian の作業をしている人が数十名いましたが、まだ私自身の手でリリースの取りまとめ作業の大半を行なっていました。0.91 は、このようにして行なわれた最後のリリースです。

1994 年の大部分は、他の人たちがより効果的に貢献できるよう Debian プロジェクトを組織するのに、そして dpkg (これについては 主に Ian Jackson さんが責任を負っていました) について作業するのに費やされました。私が覚えているかぎり、1994 年には公式なリリースはありませんでしたが、手続きを正しくするための作業中に数回の内部リリースがありました。

Debian 0.93 Release 5 が 1995 年 3 月に生まれました。これは Debian の最初の「現代的な」リリースでした: その頃にはさらに多くの開発者がいて (正確に何人なのか覚えていませんが)、それぞれが自分のパッケージを開発し、基本システムをインストールした後でこれらすべてのパッケージをインストールしたり保守したりするのに dpkg が使われていました。

Debian 0.93 Release 6 は 1995 年 11 月に生まれました。これは a.out 形式での最後のリリースでした。0.93R6 では約 60 人の開発者がパッケージを開発していました。私の記憶が正確ならば、dselect は 0.93R6 で初めて登場しました」

Ian Murdock さんは、Debian 0.93R6 は「いつでも私の大好きな Debian リリースだった」とも書いていますが、個人的な偏見がある可能性も認めています。なぜなら、Murdock さんは Debian 1.0 の試作中である 1996 年 3 月に、プロジェクトで活動するのをやめているからです。Debian 1.0 は、実際には Debian 1.1 としてリリースされました。これは、CD-ROM 製造者がリリースされていないバージョンを誤って Debian 1.0 と称してしまった後の混乱を避けるためです。この出来事は、ベンダがこの種の誤りを避けるのをプロジェクトが助ける方法としての「公式の」CD-ROM イメージという概念につながりました。

1995 年 8 月 (Debian 0.93 Release 5 と Debian 0.93 Release 6 との間) に、Hartmut Koptein さんが Motorola m68k 系列への Debian の最初の移植を開始しました。Koptein さんは「とても多くのパッケージは i386 中心主義 (リトルエンディアン、-m486、-O6、libc4 専用) で、自分のマシン (Atari Medusa 68040、32 MHz) 上に出発点となるパッケージを揃えるのに苦労しました。3 か月後 (1995 年 11 月) には、入手可能な 250 個のパッケージのうち 200 個をアップロードしましたが、すべて libc5 用でした!」と報告しています。後に Koptein さんは、Vincent Renardias さんや Martin Schulze さんと一緒に PowerPC 系列への移植を始めました。

Since this time, the Debian Project has grown to include several ports to other architectures, a port to a new (non-Linux) kernel, the GNU Hurd microkernel, and at least one flavor of BSD kernel.

初期のプロジェクトメンバーである Bill Mitchell さんは、Linux カーネルについて次のように回想しています。

「...Debian が生まれたときは 0.99r8 と 0.99r15 の間でした。長い間、私は 20 Mhz の 386 ベースなマシン上でカーネルを 30 分以内に構築することができました。そして同じ時間で、Debian のインストールを 10MB 未満のディスクスペースに行なうことができました。

... Ian Murdock さん、私、Ian Jackson さん、苗字を思い出せない別の Ian さん、Dan Quinlan さん、そして名前を思い出せない他の人たちを最初のグループとして覚えています。Matt Welsh さんは最初のグループの一部か、かなり早い段階で参加しました (その後、プロジェクトから離れました)。誰かがメーリングリストを用意し、私たちはうまくやっていました。

思い出せるかぎりでは、私たちは計画を立ててから始めたわけではなく、計画を高度に組織化された形にまとめてから始めたわけでもありませんでした。これははっきり思い出せますが、私たちは開始直後から、パッケージのまったく無作為なコレクションを作るためのソースを集めはじめました。時間がたつにつれ、ディストリビューションの中核をまとめるために必要なものを集めるのに専念するようになりました: カーネル、シェル、update、getty、システムを初期化するのに必要なその他のさまざまなプログラムやサポートファイル、そして中核となるユーティリティ一式です」


4.1.1 初期の Debian パッケージシステム

プロジェクトのごく初期の段階では、メンバーはソースのみのパッケージを配布することを考えました。各パッケージは上流のソースコードと Debian 化されたパッチファイルから構成され、ユーザはソースを展開し、パッチを当て、自分でバイナリをコンパイルするわけです。しかし、すぐにバイナリ配布のための何らかの仕組みが必要だと気がつきました。Ian Murdock さんによって書かれ、dpkg と呼ばれた最初のパッケージ化ツールは、Debian 特有のバイナリ形式でパッケージを作成しました。さらに後で展開して、パッケージ内のファイルをインストールするのにも使えました。

Ian Jackson さんがすぐにパッケージ化ツールの開発を引きつぎ、ツール自体の名前を dpkg-deb に変更し、dpkg-deb の使用を容易にし今日の Debian システムの 依存競合を提供するための dpkg と名付けられたフロントエンドプログラムを書きました。これらのツールによって作られたパッケージには、そのパッケージを作るのに使われたツールのバージョンを示すヘッダがあり、tar によって作られたアーカイブ (制御情報によってヘッダとは分けられていました) へのオフセットがファイル内にありました。

およそこの頃、プロジェクトメンバー間で論争がおきました -- dpkg-deb によって作られた Debian 特有のフォーマットは、ar プログラムによって作られる形式に取って代わられるべきではないかと思った人がいました。何度かファイル形式が変更され、それに対応してパッケージ化ツールが変更された後で、ar 形式が採用されました。この変更の鍵となる価値は、あらゆる Unix 似なシステム上で、信頼できない実行形式を走らせる必要なしに Debian パッケージを展開できるようになったということです。言いかえれば、'ar' や 'tar' といったすべての Unix システムに備わっている標準的なツールさえあれば、 Debian バイナリパッケージを展開し中身を調べることができるということです。


4.2 1.x リリース

Ian Murdock さんが Debian を離れるとき、Murdock さんは Bruce Perens さんを次のプロジェクトリーダーに指名しました。Bruce さんが Debian に最初に興味を抱いたのは、ハム無線オペレータの役に立つ Linux ソフトウェアをすべて含む「Linux for Hams」という名の Linuxディストリビューション CD を作ろうとしていたときでした。自分のプロジェクトに対応させるには、Debian の中核システムにはもっと作業が必要なことが判り、Bruce さんは自分のハム無線ディストリビューションを延期して、(Ian Murdock さんとともに) 最初の Debian インストールスクリプト一式 (これはこの後数回のリリースで Debian インストールツールセットの中核を構成することになる Debian レスキューフロッピーになりました) を組織化することを含む、基本的な Linux システムと関連するインストールツールの作業にのめりこむようになりました。

Ian Murdock さんは次のように述べています:

「Bruce さんは私の後継者として自然な選択でした。なぜなら彼は 1 年近くもの間基本システムを開発していて、私が Debian に提供できる時間が急速に減っていくにつれて弛んだ部分を拾いあげていったからです」

Bruce さんは Debian フリーソフトウェアガイドラインと Debian 社会契約を作るための労力をまとめること、またオープンハードウェアプロジェクトの創設を含むプロジェクトの重要な側面を始めました。Bruce さんがプロジェクトリーダーを務める間に、Debian は市場シェアと、まじめで、優れた技術を持つ Linux ユーザのためのプラットフォームとしての名声を獲得しました。

Bruce Perens also spearheaded the effort to create Software in the Public Interest, Inc.. Originally intended to provide the Debian Project with a legal entity capable of accepting donations, its aims quickly expanded to include supporting free software projects outside the Debian Project.

この頃、次の Debian バージョンがリリースされました:

1.3 には中間の「ポイント」リリースが何回か行なわれました。その最後は 1.3.1R6 です。

Bruce Perens さんは 2.0 リリースを準備する過程の大部分でプロジェクトを率いた後、1998 年 1 月初めに Debian プロジェクトリーダーの職を Ian Jackson さんに引きつぎました。


4.3 2.x リリース

Ian Jackson さんは、1998 年初めに Debian プロジェクトのリーダーに就任しました。その直後、Software in the Public Interest の取締役会に副社長として迎えられました。財務担当 (Tim Sailer)、社長 (Bruce Perens) そして書記官 (Ian Murdock) が辞任した後、Jackson さんは社長になり、3 人の新メンバーが選ばれました: Martin Schulze (副社長)、Dale Scheetz (書記官)、そして Nils Lohner (財務担当) です。

Debian 2.0 (Hamm) は、1998 年 7 月に Intel i386 および Motorola 68000 系列アーキテクチャ向けにリリースされました。このリリースは、システム C ライブラリの新バージョン (glibc2、歴史的な理由から libc6 とも呼ばれています) への移行を果たしました。リリース時点では、400 人以上の Debian 開発者によって保守される 1500 個以上のパッケージがありました。

Wichert Akkerman succeeded Ian Jackson as Debian Project Leader in January of 1999. Debian 2.1 was released on 09 March, 1999, after being delayed by a week when a few last-minute issues arose.

Debian 2.1 (Slink) featured official support for two new architectures: Alpha and Sparc. The X-Windows packages included with Debian 2.1 were greatly reorganized from previous releases, and 2.1 included apt, the next-generation Debian package manager interface. Also, this release of Debian was the first to require 2 CD-ROMs for the "Official Debian CD set"; the distribution included about 2250 packages.

On 21 April 1999, Corel Corporation and the K Desktop Project effectively formed an alliance with Debian when Corel announced its intentions to release a Linux distribution based on Debian and the desktop environment produced by the KDE group. During the following spring and summer months, another Debian-based distribution, Storm Linux, appeared, and the Debian Project chose a new logo, featuring both an Official version for use on Debian-sanctioned materials such as CD-ROMs and official Project websites, and an Unofficial logo for use on material mentioning or derived from Debian.

A new, unique, Debian port also began at this time, for the Hurd port. This is the first port to use a non-Linux kernel, instead using the GNU Hurd, a version of the GNU Mach microkernel.

Debian 2.2 (Potato) は、2000 年 8 月 15 日に Intel i386、Motorola 68000 シリーズ、alpha, SUN Sparc, PowerPC そして ARM アーキテクチャ向けにリリースされました。これは PowerPC と ARM への移植版を含む初めてのリリースでした。このリリース時点では、450 人以上の Debian 開発者によって保守される 3900 個以上のバイナリパッケージと、2600 個以上のソースパッケージがありました。

An interesting fact about Debian 2.2 is that it showed how an free software effort could lead to a modern operating system despite all the issues around it. This was studied[1] thoroughly by a group of interested people in an article called Counting potatoes quoting from this article:

「[...] 我々は David A. Wheeler 作の sloccount システムを使い、Debian 2.2 (別名 potato) の有意なコードのソース行数 (SLOC) を測定した。Debian 2.2 には、(約 8 ヶ月後にリリースされた Red Hat 7.1 のほぼ倍にあたる) 55,000,000 行以上の有意な SLOC があり、(世界中に散らばっているボランティアの開発者からなる巨大なグループの作業を元にした) Debian の開発モデルは、少なくとも他の開発手法に匹敵はすることが示されている [...] また、もし Debian が伝統的なプロプライエタリな手法を使って開発されていたなら、COCOMO モデルで見積った Debian 2.2 の開発コストは 19 億米ドル近くにもなるであろうことも示されている。さらに我々は、Debian 2.2 で使われたプログラミング言語 (C が約 70%、C++ が約 10%、Lisp とシェルがおおよそ 5%、その他大勢があとに続く) と、大規模なパッケージ (Mozilla、 Linux カーネル、PM3、XFree86、その他) に関する分析も提供する」


4.4 3.x リリース

Before woody could even begin to be prepared for release, a change to the archive system on ftp-master had to be made. Package pools, which enabled special purpose distributions, such as the new "Testing" distribution used for the first time to get woody ready for release, were activated on ftp-master in mid December 2000. A package pool is just a collection of different versions of a given package, from which multiple distributions (currently experimental, unstable, testing, and stable) can draw packages, which are then included in that distribution's Packages file.

同時にテスト版という新ディストリビューションが導入されました。主に、不安定版の中で安定していると思われるパッケージが (数週間後に) テスト版に移されます。テスト版導入の目的は、フリーズ期間の短縮と、プロジェクトがいつでも新リリースの準備を行なえるようにすることです。

この期間に、Debian のモディファイ版を出荷していた企業のいくつかが、消えてなくなりました。Corel は 2001 年の第 1 四半期に 同社の Linux 部門を売却し、Stormix は 2001 年 1 月 17 日に破産を宣告し、Progeny は 2001 年 10 月 1 日に同社製ディストリビューションの開発を停止しました。

The freeze for the next release started on July 1st 2001. However, it took the project a little more than a year to get to the next release, due to problems in boot-floppies, because of the introduction of cryptographic software in the main archive and due to the changes in the underlying architecture (the incoming archive and the security architecture). In that time, however, the stable release (Debian 2.2) was revised up to seven times, and two Project Leaders were elected: Ben Collins (in 2001) and Bdale Garbee. Also, work in many areas of Debian besides packaging kept growing, including internationalization, Debian's web site (over a thousand webpages) was translated into over 20 different languages, and installation for the next release was ready in 23 languages. Two internal projects: Debian Junior (for children) and Debian Med (for medical practice and research) started during the woody release time frame providing the project with different focuses to make Debian suitable for those tasks.

Debian 関連の作業も、開発者が Debconf と呼んでいる年に 1 度の会議を企画する妨げにはなりませんでした。最初の会議は、7 月 2 日から 5 日にかけてボルドー (フランス) で Libre Software Meeting (LSM) と共催で行なわれ、約 40 名の Debian 開発者が集まりました。2 回目のカンファレンスは 2002 年 7 月 5 日にトロント (カナダ) で開催され、80 人以上の参加者を集めました。

Debian 3.0 (woody) は 2002 年 7 月 19 日にリリースされ、Intel i386、Motorola 68000 系列、 alpha、SUN Sparc、PowerPC、ARM、HP PA-RISC、IA-64、MIPS、MIPS (DEC)、IBM s/390 といったアーキテクチャに対応していました。HP PA-RISC、IA-64、MIPS、MIPS (DEC)、IBM s/390 などの移植版が収録された初めてのリリースです。このリリース時点では、900 人以上の Debian 開発者によって保守される約 8500 個のバイナリパッケージがあり、CD-ROM に加えて初めて DVD メディアでも入手できるようになりました。

次期リリースを前に、年に 1 度の会議である Debconf が引き続き行われました。第 4 回は 2003 年 7 月 18 日から 20 日にかけてオスロで開催され、120 名以上の参加者が集まりました。またそれに先立ち、7 月 12 日から 17 日にかけて Debcamp も開催されました。第 5 回のカンファレンスは 2004 年 5 月 26 日から 6 月 2 日にかけてブラジルのポルト・アレグレで開催され、26 ヶ国から 160 名以上の参加者を集めました。

Debian 3.1 (sarge) は、2005 年 6 月 6 日にリリースされ、対応アーキテクチャは woody と同じでしたが、非公式な AMD64 移植版が同時にリリースされました。この AMD 64 移植版は、http://alioth.debian.org から利用できるディストリビューション向けプロジェクト運営インフラストラクチャを使用しています。1500 人以上の Debian 開発者によって保守される約 15,000 個のバイナリパッケージがありました。

sarge のリリースでは多くの大規模な変更がなされましたが、大半は同ディストリビューションのフリーズとリリースに要した長きにわたる時間によるものです。sarge では、従来バージョンにもあったソフトウェアの 73% 以上が更新されただけでなく、9000 個もの大量の新規パッケージが収録され、サイズ的には従来リリースの倍近くになりました。新規パッケージには、OpenOffice スイート、Firefox ウェブブラウザ、Thunderbird 電子メールクライアントなどが含まれます。

sarge には Linux カーネルの 2.4 および 2.6 系列、XFree86 4.3、KDE 3.3 が収録されており、まったく一新されたインストーラを備えていました。この新インストーラは旧式な起動フロッピー式インストーラを置き換えるものです。モジュール式の設計で、ハードウェアの自動認識を含むより進化したインストール (RAID、XFS、LVM にも対応) を提供し、全アーキテクチャにおいて初心者ユーザでもインストールを容易に行なえます。また、パッケージ管理用に選ばれるツールは aptitude に切り替わりました。ソフトウェアがほぼ 40 ヶ国語に翻訳されたように、インストールシステムも完全な国際化対応を誇っています。インストールマニュアルやリリースノートといった周辺文書もリリースと同時に入手可能となり、それぞれ 10 から 15 ヶ国の言葉に翻訳されたものが用意されています。

sarge には、Debian-Edu/Skolelinux や Debian-Med、Debian-Accessibility といったサブプロジェクトによる成果も取り込まれています。これらのサブプロジェクトにより、教育用パッケージや医療団体用パッケージ、それに障碍のある人向けに特別に設計されたパッケージの数は増加の一途をたどっています。

The sixth Debconf was held in Espoo, Finland, from July 10th to July 17th, 2005 with over three hundred participants. Videos from this conference are available online.

The seventh Debconf was held in Oaxtepec, Mexico, from May 14th to May 22nd, 2006 with around two hundred participants. Videos and pictures from this conference are available online.


4.5 4.x リリース

Debian 4.0 (etch) was released April 8th, 2007 for the same number of architectures as in sarge. This included the AMD64 port but dropped support for m68k. The m68k port was, however, still available in the unstable distribution. There were around 18,200 binary packages maintained by more than one thousand and thirty Debian developers.


4.6 5.x リリース

Debian 5.0 (lenny) は、2009 年 2 月 14 日にリリースされ、対応アーキテクチャの数は前のリリース etch から 1 つ増えました。新しい ARM プロセッサ向け移植版を取り込みました。前回のリリースと同様、m68k アーキテクチャは不安定版ディストリビューションでまだ利用できるようになっていました。1010 人以上の Debian 開発者によって保守される (12,000 個以上のソースパッケージから構築された) 約 23,000 個のバイナリパッケージがありました。

The eighth Debconf was held in Edinburgh, Scotland, from June 17th to 23th, 2007 with over four hundred participants. Videos and pictures from this conference are available online.

The ninth Debconf was held in Mar de Plata, Argentina, from August 10th to 16th, 2008 with over two hundred participants. Videos and pictures from this conference are available online.

The tenth Debconf was held in Caceres, Spain, from July 23th to 30th, 2009 with over two hundred participants. Videos and pictures from this conference are available online.

The eleventh Debconf was held in New York City, United States of America, from August 1st to 7th, 2010 with Debcamp preceeding it from July 25th to 31st. Over 200 people including Debian developers, maintainers, users gathered at the Columbia Campus to participate in the conference. Videos and pictures from this conference are available online.


4.7 6.x リリース

Debian 6.0 (squeeze) は、2011 年 2 月 6 日にリリースされました。

2009 年 7 月 29 日に Debian は時間ベースのリリースを採用することを決定し、その後の新リリースは偶数年の前半のある時点に行われることにしました。Squeeze は 2 年ごとという新しい時間計画に移るための一度きりの例外ということになっていました。

この方針が採用されたのは、Debian ディストリビューションのユーザによりよいリリース予測可能性を提供するため、また、Debian 開発者がよりよい長期計画を立てられるようにするためでした。2 年ごとのリリースサイクルならば破壊的な変更にもっと多くの時間を充てられるので、ユーザに不便を強いることを減らすことになります。フリーズが予測できることで、全体としてのフリーズ期間の短縮にもつながることが期待されていました。

However, even though the freeze was expected in December 2009, the frozen announcement came in August 2010, coinciding with the celebration of the 10th annual Debconf meeting in New York.

次の新機能があります:

Many packages started using a new source package format based on quilt. This new format, called "3.0 (quilt)" for non-native packages, separates Debian patches from the distributed source code. A new format, "3.0 (native)", was also introduced for native packages. New features in these formats include support for multiple upstream tarballs, support for bzip2 and lzma compressed tarballs and the inclusion of binary files.

12 回目の Debconf がボスニア・ヘルツェゴビナ、スルプスカ共和国のバニャルーカで 2011 年 7 月 24 日から 30 日まで、先だって 7 月 17 日から 23 日まで行われた Debcamp と合わせて開催されました。

13 回目の Debconf がニカラグアのマナグアで 2012 年 7 月 8 日から 14 日まで、先だって 7 月 1 日から 6 日まで行われた Debcamp、7 月 7 日に行われた Debian Day と合わせて開催されました。


4.8 7.x リリース

Debian 7.0 (wheezy) was released May 4th, 2013. This new version of Debian included various interesting features such as multiarch support, several specific tools to deploy private clouds, an improved installer, and a complete set of multimedia codecs and front-ends which removed the need for third-party repositories.

During the Debian Conference DebConf11, in july 2011, the "multiarch support" was introduced. This feature was a release goal for this release. Multiarch is a radical rethinking of the filesystem hierarchy with respect to library and header paths, to make programs and libraries of different hardware architectures easily installable in parallel on the very same system. This allows user to install packages from multiple architectures on the same machine. This is useful in various ways, but the most common is installing both 64 and 32-bit software on the same machine and having dependencies correctly resolved automatically. This feature is described extensively in the Multiarch manual.

インストールプロセスは大きく改善しました。ソフトウェアによる音声案内を利用することで、特に点字デバイスを使わない視力障害者がインストールすることができるようになっています。莫大な数の翻訳者の協力のおかげで、インストールシステムは 73 の言語で利用可能となり、音声合成を利用可能な言語も多数あります。さらに、Debian は新しい 64 ビット PC 向けに、UEFI を使用したインストールやブートを初めてサポートしています。ただし、セキュアブートのサポートはまだありません。

他の新機能や更新されたソフトウェアパッケージ:

For more information on the new features introduced in this release, see the What's new in Debian 7.0 chapter of Wheezy Release Notes.


4.9 重要な出来事


4.9.1 2000 年 7 月: Joel Klecker さん逝去

2000 年 7 月 11 日、Espy のニックネームで知られていた Joel Klecker さんが 21 歳でこの世を去りました。#mklinux、Debian のメーリングリストや IRC チャンネルで 'Espy' と交流のあった人々で、このニックネームの影には デュシェンヌ型筋ジストロフィーという病に苦しむ若者がいるのを知っていた者はいませんでした。ほとんどの人々は Joel さんのことを「Debian の glibc と powerpc 野郎」としてのみ知っており、Joel さんが闘っていた困難に想いがおよぶ者はいませんでした。肉体的には病んでいましたが、Joel さんはその偉大なる精神を他の人と共有していました。

Joel Klecker (別名 Espy) さんに心より哀悼の意を表します。


4.9.2 2000 年 10 月: パッケージプールの実装

James Troup さんは、アーカイブ保守ツールの再実装を行ない、パッケージプールに移行したと報告しました。この日より、ファイルは pools ディレクトリ内のソースパッケージに対応した名前のディレクトリに保存されるようになりました。ディストリビューションのディレクトリには、プールへの参照が含まれた Packages ファイルだけが収められています。これにより、テスト版や不安定版といったディストリビューション間での重複が単純化されました。このアーカイブは PostgreSQL を使ったデータベース駆動型でもあり、ロックアップも高速化されています。

この Debian のアーカイブ管理方法の考え方は、1998 年 5 月に Bdale Garbee さんによりこのメールでパッケージのキャッシュが初めて debian-devel メーリングリストに紹介されたときと同じようなものです。


4.9.3 2001 年 3 月: Christopher Rutter さん逝去

2001 年 3 月 1 日、Christopher Matthew Rutter (別名 cmr) さんが、交通事故により 19 歳で命を落としました。Christopher さんは Debian プロジェクトの若く有名なメンバーで、ARM 移植版を手伝っていました。buildd.debian.org のサイトをもって追悼を捧げます。

Chris Rutter さんに心より哀悼の意を表します。


4.9.4 2001 年 3 月: Fabrizio Polacco さん逝去

2001 年 3 月 28 日、Fabrizio Polacco さんが長い闘病生活の末、この世を去りました。Debian プロジェクトは、Fabrizio さんによる Debian とフリーソフトウェアでの優れた作業と多大な献身に敬意を表します。Fabrizio さんの貢献は忘れられることなく、他の開発者が Fabrizio さんの業績を引き継ぐべく前進するでしょう。

Fabrizio Polacco さんに心より哀悼の意を表します。


4.9.5 2002 年 7 月: Martin Butterweck さん逝去

2002 年 7 月 21 日、Martin Butterweck (別名 blendi) さんが、白血病と闘った末、亡くなりました。Martin さんは Debian プロジェクトの若いメンバーで、プロジェクトに加わったばかりでした。

Martin Butterweck さんに心より哀悼の意を表します。


4.9.6 2002 年 11 月: Debian サーバ焼失

2002 年 11 月 20 日の 08:00 CET (中央ヨーロッパ時間) 頃、オランダにあるトゥエンテ大学のネットワークオペレーションセンターで火災が発生しました。建物は全焼しました。消防署はサーバエリアを救う望みを諦めました。とりわけ NOC では satie.debian.org が運用されており、そこにはセキュリティおよび non-US アーカイブと、新規メンテナ (nm) および品質保証 (qa) データベースが含まれていました。Debian はこれらのサービスを klecker という名のホストで再構築しましたが、最近になって klecker はアメリカからオランダに移されました。


4.9.7 2004 年 5 月: Manuel Estrada Sainz さん、Andrés García Solier さん逝去

5 月 9 日、Manuel Estrada Sainz (ranty) さんと Andrés García Solier (ErConde) さんが、スペインのバレンシアで開催されたフリーソフトウェアカンファレンスからの帰途、痛ましい交通事故で命を落としました。

Manuel Estrada Sainz さんと Andrés García Solier さんに心より哀悼の意を表します。


4.9.8 2005 年 7 月: Jens Schmalzing さん逝去

7 月 30 日、Jens Schmalzing (jensen) さんがドイツのミュンヘンにある職場で発生した痛ましい事故により亡くなりました。Jens さんは Debian に参加して各種パッケージのメンテナ、PowerPC 移植版のサポーター、カーネルチームのメンバーとして活躍し、PowerPC カーネルパッケージをバージョン 2.6 に上げる手助けをしました。また、Mac-on-Linux やそのカーネルモジュールのメンテナでもあり、インストーラや地元のミュンヘンでの活動を援助したりもしました。

Jens Schmalzing さんに心より哀悼の意を表します。


4.9.9 2008 年 12 月: Thiemo Seufer さん逝去

On December 26th Thiemo Seufer (ths) died in a car accident. He was the lead maintainer of the MIPS and MIPSEL port and he had also contributed at length in the debian-installer long before he became a Debian developer in 2004. As a member of the QEMU team he wrote most of the MIPS emulation layer.

Thiemo Seufer さんに心より哀悼の意を表します。


4.9.10 2010 年 8 月: Frans Pop さん逝去

Frans Pop (fjp) さんが 8 月 20 日に亡くなりました。Frans さんは Debian に参加し、いくつかのパッケージのメンテナや S/390 移植版の支援を行い、そして Debian Installer チームに最も関わったメンバーの 1 人でした。Debian メーリングリストの管理者で、インストールガイドとリリースノートの編集者兼リリースマネージャであり、オランダ語の翻訳者でもありました。

Frans Pop さんに心より哀悼の意を表します。


4.10 次は何?

Debian プロジェクトは、不安定版ディストリビューション (コードネーム sid。映画 Toy Story 1 より隣家に住む凶悪で「情緒不安定」な少年から名付けられました。こんな子は、絶対に世の中に出すべきではありません) で作業を続けています。Sid は永久に不安定版のコードネームであり、常に「開発中 (Still In Development)」です。ほとんどの新規および更新されたパッケージは、このディストリビューションにアップロードされます。

テスト版リリースは次期安定版リリースとなることを目指しており、現在のコードネームは jessie です。


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Debian 小史

2.19 (最終改訂 2013 年 5 月 4 日)

Debian Documentation Team mailto:debian-doc@lists.debian.org